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 (2014年7月6日記す)


そういち自画像
      著者そういち自画像

ブログ「団地の書斎から」のテーマ

団地の小さな書斎で、たまには「大きなこと」について考える。

世界史の大きな流れ。時代の変化。政治経済などの世の中のしくみ。そして、時代や社会をつくった人びとの生きかた。
    
自分のアタマで考えること。「考え」を文章でどう表現するか。
  
古い団地をリノベして暮らしています。「リノベと住まい」もテーマのひとつ。暮らしの中の小さなたのしみについても。 
    
これらをわかりやすく・ていねいに書きたい。


●著者「そういち」について

社会のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後、運輸関係の企業に勤務し、事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら教育研究のNPOに参加して、社会科系の著作や講演で活動。その後、十数年勤めた会社を辞め、独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て、現在はキャリアカウンセラーとして就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。 


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団地の書斎のそういち
撮影:永禮賢
2020年05月27日 (水) | Edit |
つい先日、緊急事態宣言が全国すべてで解除になったので、これまでについての検証をしてみよう。まだまだコロナ禍の問題は続くだろうから、とりあえずの中間的な検証だ。

といっても、政府の対応についてではなく、自分が今回の各時点で事態をどうとらえたか、ということ。自分に対する検証である。

おととい(25日)の記者会見で、安倍総理は「今の時点でこれまでの政府の対応についての検証はしないのか」という質問に対し「今はしない。事態が収束してからだ」という答えだった(でもWHOに対しては、このあいだ「これまでの対応を検証すべきだ」と主張した国のひとつだし、このときの記者会見でもその話をしていた)。

こういう、検証や反省を避ける姿勢は良くないなと思ったので、自分は自分のことを検証してみようと思ったしだいです。

検証の材料としては各時点で書いたブログがある。2月以降、当ブログと別ブログの「そういち総研」で書いた記事(あわせて10数本、そんなに書いてないけど)のほとんどはコロナ関連だ。

最初にコロナのことを書いたのは、2月下旬。別ブログ「そういち総研」で、コロナウイルス対策からみた中国と日本の社会構造の比較というテーマで長文の記事をアップした(2月23日)。中国は専制(独裁)国家であり、日本は集団・組織のあいだの調整を重視する「団体構造」の社会で、そのことが今回のコロナへの対応でも端的にあらわれている、という内容だ。この記事を紹介する記事を、当ブログでも書いた(2月24日)。

専制国家・中国の社会構造と行動の特徴←2月23日の「そういち総研」の記事

この頃の記事を読み返すと、「コロナ問題をまだまだ対岸の火事だと思っていたなあ」と感じる。

この記事の切り口は、「コロナ問題は中国をおもな舞台として今後も進行する」というイメージに基づいている。コロナウイルスが中国を超えてあれだけの猛威を振るうとは予想していなかった。1か月後にオリンピックの延期が決まるなんて、思っていなかった。

また、今回のコロナの問題が展開しだいでは、習近平の支配に大きなダメージを与える可能性についても述べた。しかし、中国政府は今のところコロナをかなり抑え込んだようなので、習政権の明らかな危機ということは起こっていない。

記事のなかではそれほど踏み込まなかったが、当時の私は、中国での混乱の拡大・深刻化や、それが政権を揺るがすという可能性は、相当にあるとイメージしていた。そういう展開が短期間のうちにはっきりするかもしれないと。習政権自身が、少なくとも2月にはその危機感を強く持っていたはずだ。

しかし、思っていた以上に中国の独裁体制はしぶとかったようだ。それどころか、中国のような相当な国力を持った独裁体制は、強力な感染症対策を推進しやすい一面があるということが、今回の件で明らかになった。少なくとも短期的にみて、政権が大きく揺らぐ様子は、今のところみられない。

ただし、中期的には経済不振や感染拡大の再燃が深刻化する可能性はあるので、中国の体制にとって強い緊張感は続くのだろう。独裁国家の権力者は、権力の座を追われたら命さえ危なくなるので、その緊張感は先進国のリーダーとは比較にならない。

ここまで「予想やイメージどおりではなかった」という面について述べた。でも、2月23日の記事で、つぎのところは今も有効な見方だと思っている。(以下、赤い文字は記事からの引用)

“一方、新型コロナウイルスの問題に対する日本社会の反応はどうか。これは「縦に連なる重層的な関係性」で成り立つ「団体構造」ならではのことになっていると思う。「縦に連なる重層的な関係性」というのを私なりに補足すると「さまざまなレベルの中間団体に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって社会全体が構成されている」ということだ。

こういう社会は、手慣れた問題だと、さまざまな組織(中間団体)の間の連携や協力がスムースに行われるが、未経験の問題に対しては、お互いの組織の立場や利害に配慮するあまり、現場が身動きしにくくなる傾向がある”


このような日本社会の特徴は、その後のコロナ対策にずっとマイナスの影響をあたえつづけた。私たちは、2月以降のさまざまな局面で、総理をはじめとするリーダーが「スピード感をもって調整していきます、再来週をめどに…」みたいなことを言うのを見聞きしてきた。これからもそれが続く可能性はおおいにあるだろう。

そして、ここでいう日本的な「団体構造」の特徴としては、「明確な方針や責任感をもったリーダーシップの不在」ということもある。このこともその後の政府中枢の様子をみていると顕著だった。しかし、この点についての認識は、2月下旬の時点ではまだ不十分だったと思う。

一方で、この2月下旬の記事では、こうも書いた。

“しかし一方で、日本人は目的やなすべきことが明確ならば、お互いに「調整」を重ねたうえでということになるが、立場を超えて協力しあうことも得意なはずだ”

これは、緊急事態宣言後にさまざまな事業者や多くの個人が「自粛」に協力した様子をみれば、当たっていたイメージだと思う。

ただし、このときの私は(記事では述べていないが)、日本社会における「立場をこえた協力」のひとつのあり方として、「日本株式会社の団結」ということもイメージしていた。

つまり、日本の主だったメーカーや総合商社などが、この問題への対応で何か大きく貢献してくれるのではという期待だ。医療機器の生産、あるいは物資の調達などで、こうした企業が目立った動きをするのではないかと。

ところが、こういう「日本株式会社の団結」は、不発だった。もちろん、社会を維持するうえでさまざまな企業が努力していたのはたしかにちがいないが、プラスアルファの大きな何かは、ほぼみられなかった。

とくに、最近のトヨタのCMで「関連会社でフェイスガードをつくっています」みたいなことを言っているのをみると、そう思う。世界のトヨタがそんなものか、と残念な気になる。トヨタは自分で医療系の何かをつくるのではなく、医療機器のメーカーにトヨタ的な生産管理を指南することにしたのだそうだ。「お茶を濁す」とは、こういうことをいうのだろう。

シャープは自社製マスクをネット販売しようとしてシステムダウンしてしまった。ユニクロはようやく夏の販売開始をめどにマスクをつくりはじめたとのこと。伊藤忠商事はアベノマスクの調達に尽力したが、いろいろうまくいかなかったようだ。うーん…

日本株式会社が今回のコロナ禍で、めざましい動きができなかったことについては、専門性のちがいなど困難な事情も多々あっただろう。自動車メーカーにいきなり医療系のなにかで貢献しろと言われても、ということだ。でも、ほんとうに「ムリだ」で終わっていいんだろうかと、今も思う。もしも「さすがはトヨタ」といわれるような何かができたなら、トヨタ自身も得るものは大きかったはずなのに。

日本株式会社は、やはり活力が落ちているのだ。それはわかってはいたが、思っていた以上だったのだと、今回感じた。

このことをマスコミは言わない。とくにテレビはスポンサー批判になるのでまったく言えない。日経新聞では、外国の記者がこの「日本株式会社の不発」について言及しているのをみかけたことがあるが。

検証・反省すべきことはこのあと3月、4月、5月の分と続くのだが、長くなってきたので、いったんこのへんでやめておこう。ただ、2月頃の、日本で事態の深刻化が明らかになる以前の「見立て」がどうだったかは、とくに重要だ。

こういうふうに自分について一定の検証・反省ができるのは、「ぜんぜんダメだったわけじゃない」「甘いところや間違いもあったが、正しいところもかなりあった」と今も思えるからだろう。

これが「全然ダメだった、間違いばかりだった」ということになると、検証なんてまっぴらだと思うにちがいない。検証などしたら、ボロボロになってしまう。今の安倍総理の認識は、そういうことなのだろう。

(以上)
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2020年05月12日 (火) | Edit |
今日5月12日は、フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910 イギリス)の誕生日だ。しかも生誕200年。コロナ禍の今、人びとの命と健康を守るために多くの仕事をした彼女のことを、ぜひ取りあげたい。(このブログでは過去にも取りあげたことがあるが、あらためて)

ナイチンゲールは何をした人だったのか? 多くの人を救った立派な看護師? 

それはまちがいではないが、不十分な答えだ。

ナイチンゲールは、看護という専門分野の確立者である。彼女以前には、看護という仕事は、専門知識や高いスキルを要するとは思われていなかった。「誰でもてきる」と誤解されていた。しかし、彼女が看護の現場でリーダーとして活躍し、さまざまな改革を行い、看護師を養成する学校を立ち上げ、当局や世論に働きかけたことによって、変わった。

ナイチンゲールが有名になったのは、クリミア戦争(イギリス・トルコなどとロシアの戦争、1853~1856)で、イギリス軍の野戦病院の看護婦長として活躍したときからである。当時の彼女は30代半ば。

彼女が派遣される前、スクタリ(戦場となったトルコの地名)の野戦病院の管理・運営はガタガタだった。不衛生な環境に多くの傷病兵が詰め込まれ、薬品その他の医療物資が不足していた。食事の質にも問題があった。このため、病院内では「本来は死なずにすんだはずの患者」が、おおぜい亡くなっていた。

彼女は病院の管理体制を立て直して、多くの兵士の命を救ったのである。彼女が率いる看護師チームは、病院内を清掃し、寝具や衣類を清潔に保ち、さまざまな医療物資を調達し、食事を改善した。この改革を、私たちが一般に「看護師の仕事」と思う患者のケアを行いながら、すすめていった。

しかし、この「立て直し」は、戦いの連続だった。イギリス陸軍という官僚機構との戦いである。

当初、陸軍当局は病院の管理に問題が生じていることを認めようとはしなかった。「物資は十分に行きわたっている」と言い張った。現場から「もっと物資を」と訴えても、積極的に動こうとはしなかった。いざ何かを調達するとなっても、陸軍の部署間のさまざまな調整や手続きが煩雑で、なかなか進まない。ナイチンゲールたちを敵視する、反改革派の妨害もあった。ナイチンゲールを誹謗中傷するウソだらけの「秘密報告書」が出回った。

しかし、新聞の現地取材や報道によって、世間は野戦病院のひどい状況を知るようになった。ナイチンゲールたちが求めるさまざまな救援物資を送るための「基金」がつくられ、多くの資金が集まった。ナイチンゲールも、いろいろ手配をして独自に物資を調達した。彼女は上流階級の出身で、政界や実業界に少数派ではあるが支援者がいたので、そういうことができたのだ。

しかし、そうやって寄せられた物資を、陸軍の官僚たち(一部の軍医も含む)は活用することを拒んだ。「物資は足りている」と言ってきた自分たちの体面を気にしたのである。せっかく届いた物資(栄養補給のためのライム果汁)が、1か月間まったく支給されないまま、ということもあった。これは、ライム果汁が「支給規則」のなかの項目に含まれていないためだった……

以上はほんの序の口である。ナイチンゲールのクリミア戦争における活躍では、切迫した現場での「腐敗し、硬直化した官僚機構との戦い」が延々と続く。

それでも、あの手この手でなんとか戦いを続けて、彼女は成果をあげていった。たんに「戦う」だけでなく、現場の医師たちとの信頼関係構築には、気を配った。現場での取り組みのほかに、政府高官の支援者と連携して、世論に訴えるさまざまなキャンペーンや権力者への根回しも行った。

また、環境の変化と死亡率の相関関係など、現場で起きていることの統計的分析にも力を入れている。のちに彼女は野戦病院の状況について、数値やグラフを駆使した詳細な報告書を作成・公表している。彼女は、こうした統計研究の先駆者でもある。

ナイチンゲールは、「白衣の天使」という表現などではとてもおさまらない、ものすごい人だった。今の世界には、「ナイチンゲール」がもっと必要なのかもしれない。

ただし、それは命がけの現場で献身的に働く医療・看護のスタッフという意味での「ナイチンゲール」ではないのだろう。そのような現場を支えるために戦う指導者としてのナイチンゲール、ということだ。

だから、医療従事者に限らず、政治家や官僚やそのほかのリーダー的な人が「ナイチンゲール」にぜひなってほしいし、誰かがならないといけない。そういうリーダーがいたら、私たちはぜひ応援していこう。でも、どこにいるのだろう?きっと、社会のあちこちのどこかで戦っているはずなのだが……

(以上)

参考文献
板倉聖宣,松野修編著『社会の発明発見物語』仮説社(1998)、長島伸一著『ナイチンゲール』岩波ジュニア新書(1993)、多尾清子著『統計学者としてのナイチンゲール』医学書院(1991)
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2020年05月06日 (水) | Edit |
このゴールデンウィークは「ステイホーム」ということで、近所のスーパーに買い物に行った以外はほぼ外出せす、家にこもっている。ただ、私はもともと週末は家にこもって読んだり書いたりしていることが多いので、それとあまり変わらないのかもしれない。

でも、これほど徹底して閉じこもることはなかった。それに、緊急事態になる前の「ステイホーム」は、どこかへ出たくなれば、いつでもそれができるという自由があったけど、今はちがう。

おとといの午後、その何日か前にアマゾンで注文した本が届いた。メールで知らせがあったので、玄関のドアをあけると、本の入った封筒が置いてあった。このところ、そういう配達の仕方になっているようですね。

届いた本は、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店(2006)。第一次世界大戦末期の1918年から終戦直後の1920年まで世界的に流行した「スペイン風邪」といわれるインフルエンザの、日本での状況についての研究書だ。

「日本におけるスペイン風邪」をテーマに1冊の本を書いたのは、今のところこれだけなのだそうだ(ほかに、同時代の政府資料を復刊した『流行性感冒』平凡社というのはある)。著者の速水さんは、歴史人口学の大家である。

スペイン風邪は、史上最悪のパンデミックのひとつである。これによって全世界で5000万人、日本では40万人ほどが亡くなった(ただし、数字は諸説ある)。

この本を、ゆうべ遅くにざっと読み終わった。たしかに、今の新型コロナの状況と重なりあうところがある。

日本の場合、海外で先に起こっていた流行について情報の不足や分析の誤りがあり、対策が後手にまわった。政府として多少とも動き出したのは感染がすっかり広がってから。国家としての対策の支出は、驚くべきことに、ほとんどなされずじまい。劇場、デパートのような街中で人の集まる場所の閉鎖措置は(例外はあるが)とられなかった。政府の動きは鈍かった。

政府は予防キャンペーンのため凝ったイラストつきのポスターを8種類もつくっているが、実効性があったとは思えない。「政府も何かやってます」というアピールがしたかったのか。政府に苛立つ与謝野晶子のような有名文化人のエッセイも残っている。

一方、治療や予防に奮闘した町のドクターがいたことも、記録に残っている。当時はウイルス学も確立しておらず、この病気の正体はわかっていないので、医師にできることはほんとうに限られていた。しかしそれでも当時なりにワクチンや治療薬を試す動きもあった(それらには結局効果はなかったが)。

また、「飛沫で感染する」「人との距離を置く」「うがい・手洗い」「マスク着用」といった、今のコロナと基本的には変わらない予防策が新聞で述べられていたりもする。病人の熱をさますための氷が不足して品薄になり、値段が高騰している。

そして、スペイン風邪には、数え方にもよるが、第2波があった。いったん沈静化したあと、再度流行があり、第1波に匹敵するかそれ以上の大きな被害をもたらしている。これは、コロナの今後を考えるうえでも重要な情報だ。

スペイン風邪のことは、おもにこの本をもとに、いずれ長文の記事にまとめてみたいと思った。

なお、この本の著者の速水さんは、2019年の12月に90歳で亡くなった。もしご存命なら、今頃マスコミから多くの取材があったことだろう。速水さんがこの本を書いたのは2005年頃。当時、新型インフルエンザの脅威が取りざたされるようになり、数十万人が亡くなったスマトラ大津波(2004年)の惨事があった。そんな中、ほとんど知られていない「日本におけるスペイン風邪」について研究する必要を感じたようだ(同書、序章)。先見の明があったのだ。

***

あと最近、戸部良一ほか『失敗の本質』中公文庫(1991、原著1984)を読み返している。

本の副題にもあるが、第二次世界大戦のときの日本軍(陸軍・海軍)の失敗について組織論的に研究した本である。当時の軍隊や軍事情勢に詳しい歴史家と、経営や組織論の研究者らによる共同研究。いろんなところで言及される、あるいは話の元ネタにされる、現代の「古典」といえる本。

この本は、日本社会に何かの大きな危機があって、リーダーが迷走するたびに、再読されるのだと思う。東日本大震災のときにも、当時の政府をこの本の視点から批判する動きもあったのだそうだ(同書のビジネスマン向け解説書、鈴木博毅『「超」入門  失敗の本質』より)。

「今のコロナ対策における政府は、戦前・戦中の日本軍のようだ!」と糾弾するつもりはない。ツイッターなどで、強い言葉でそう言っている人はたくさんいるにちがいない。そういうのに加わりたいとは思わない。

しかし、当時の日本軍の失敗は、日本の大組織やトップリーダーが失敗するときの「典型」「極致」を示していると思う。つまり、失敗するときには、「日本軍的」なことを多かれ少なかれやらかしている。私たちや私たちの選んだリーダーは、深刻な危機のときに「日本軍的」な失敗をしがちなのだと、警戒すべきだ。そのための「チェックリスト」を、この本『失敗の本質』は提供してくれているのだと、私は思う。

では『失敗の本質』では、どんなことに「要注意」だと言っているのか。

目の前のことばかりの「短期志向」でグランドデザインがない。現実を無視して自分たちの思い込み、情緒、忖度、楽観的見通しに基づいて戦略を決める。情報収集と活用の軽視。対策・手段の幅が狭く「いつものやり方」をくり返す。現実が変化しているのに、過去に「正しい」とされたやり方に固執し続ける。多くの犠牲が出ても、頑としてやり方を改めない。そういう人間が要職であり続ける。

意思決定を支配するのは「空気」。明確なリーダーシップを欠いたまま、責任が不明確なまま、ものごとがすすんでいく。

「目標は何か」があいまいで、戦略目標を数値などで客観的に示すことができない。とにかく定量的な検討や判断が苦手。ロジスティックス(資材・食糧の調達)を軽視して、根性主義の精神論がまかりとおる。

誰もが扱えるシステムや技術よりも、必死の努力による「名人芸」「職人技」を偏重。ある面ではすぐれた技術を持っているのに、トータルのバランスを欠いている。

能力・職務による客観的な人材登用ではなく、閉じた人間関係によるエコひいきの横行。作戦を立てる司令部と現場の距離があまりにも遠く、司令部が現場を知らない…

レベル感も不ぞろいで、順不同なのだが、同書にあった項目として、とりあえずこんなことが思い浮かぶ。

うーん、どうだろうか。今の日本政府は、もちろんかつての日本軍のような最悪ではない。もっと正常だと思う。しかし、「失敗の本質」的な失敗の周辺を、うろうろしているところもみられるように思う。あるいは「失敗」に片足を突っ込んでいるのでは、と心配になる。このことも、いずれもう少し踏み込んでまとめてみたいが、時間がないかも。

***

先日、別ブログ「そういち総研」に新しい記事をアップしました。このところ、「感染症とは人類にとって何か」という視点で複数の記事をアップしていますが、これは一応の「まとめ」といえるものです。
↓以下をクリック

感染症によって、世界はどう変わってきたか。新型コロナ以後どうなるのか

(以上)
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2020年04月26日 (日) | Edit |
今回の新型コロナウイルスの問題に関して、政府や人びとに求められるのは「科学的に理にかなった、なすべきことを行う」ということだろう。あたりまえといえばあたりまえだが、やはりそれしかない。

でも、その「あたりまえ」は、じつはいろんな要素によって妨げられているのかもしれない。国の指導者にしても「科学的に問題に対処する」以外のことを大事にしている様子がみられないだろうか?

何がその「妨げ」になるかは、国によってちがいがあり、そこにそれぞれの国の特徴があらわれている。

例えば中国では、感染拡大の初期に情報の隠蔽があった。未知の感染症が広がりつつあることに警鐘をならした医師を弾圧したりもした。

中国の独裁的な体制では、権力者にとって不都合な情報が隠蔽されるのはよくあることだ。不都合な事実を速やかに認め、それを報告・公表するのは「科学的な対処」の前提だが、それは独裁国家では簡単なことではない。

これは、上層部が意図的に情報統制をするだけではなく、組織の力学も働いている。独裁国家の中間管理職は、自分の持ち場で「あってはならない」ことが起きれば、権力者の不興を買って非常に不利な立場に追い込まれてしまう。ときには命にさえかかわる。だから、多くの問題はできれば大ごとになる前におさえこみたい。そこで上層部にも、正しく情報が上がってこないことがしばしばある。

しかし、情報操作ではウイルスをどうすることもできない。いつものやり方が通用しない相手ということだ。

今回の件で「いつものやり方は通用しない」ということが、どうしても飲み込めない権力者がいる。トランプ大統領はその代表だろう。トランプ氏は、当初はコロナウイルスの脅威を露骨に過小評価していた。その脅威は自分の経済政策の成果を台無しにしかねない。とくに、今年の選挙を控えた民主国家の政治リーダーとしては「認めたくない」ものだ。だから、うやむやにしたかった。しかし、大統領がどう発言しようと、ウイルスにとってはまったく関係のないことだ。

これはもちろんあたりまえのことなのだが、あの大統領にはなかなか飲み込めない。「このウイルスはもうすぐ終息する」的な楽観論を、いろんな場面でくりかえしてきた。さらに、昨日のテレビのニュースによれば、「消毒液の注射が有効だ」などとトンデモ発言をしたのだそうだ。これにはさすがに驚いた。トランプさんは、科学がトコトン苦手なのだ。今のアメリカの民主主義が、このような大統領を生み出した。

ただし、科学が苦手なのはトランプ大統領だけではない。新興国・発展途上国ではもっと深刻な状況だろう。インドでは、与党人民党が西ベンガル州で新型コロナ対策として、牛の尿を飲む集会を開いたのだそうだ。尿がさまざまな病気に効くという考えが、インドでは根強くある。ヒンズー(インドの伝統宗教)至上主義者のなかには、ヨガがコロナに効くという者もいるという。(日経新聞4月19日朝刊、デリー大助教ローフ・ミール氏による)。

しかしこういう「迷信」は、先進国の問題でもある。アメリカ大統領が「消毒液の注射が効く」などと言うくらいなのだから。

***

日本はどうだろう。日本ではさまざまな関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、「科学的な対処」を迅速に実行できない傾向が強いようだ。

中国のような独裁国家では、政府の各部署はトップダウンで動く。だから、部署間での「調整」ということは、皆無であるか優先順位が低い。また、欧米の先進国の場合は、組織や役職の権限・職務について体系的で詳細なルールを整備し、そのルールに基づく運営を徹底しようとする伝統がある。そのような場合も日本的な「調整」は、あまり重要ではない。

日本では、もちろん中国のような独裁権力は存在しない。一応は欧米型の民主主義の体制ではある。しかし、体系的ルールに基づく運営よりも、抽象的であいまいな基本方針のもと、さまざまな「調整」「忖度」に基づいて多くのものごとが動いてきた。

そのような日本的な枠組みでは、さまざまな立場における権限や役割、そして責任が不明確になってしまうものだ。そして、こうした「あいまいさ」は、権力者やエリートには居心地のよいところがあった。責任の重圧を感じないで済むのだから。

しかし、「調整」「忖度」ばかりの政治・行政は、今回のような緊急事態に対しては、デメリットが大きすぎる。意思決定に時間がかかり、踏み込んだ施策も行われにくい。対策が「遅く」「生ぬるい」ものになりがちなのだ。今、それは現実の問題になっていて、多くの人が苛立ちを感じている。

たとえば4月上旬の政府による緊急事態宣言のあと、政府と東京都は3日ものあいだ「どの業界が営業自粛要請の対象となるか」について「調整」していた。「生活に困窮する世帯に30万円支給」なのか「各人に10万円支給」なのかについても、官邸・官僚機構・自民党議員・公明党などのあいだで「調整」がバタバタした。

そして、そもそも緊急事態宣言が「遅かった」という意見もある。「宣言」とセットで出された経済対策の取りまとめに時間がかかったことも影響している、と言われる。このような取りまとめは、まさにさまざまな「調整」を通じて行われる。

助成金や融資を申請した際に、手続きに時間がかかり過ぎてしまうのも、「調整」重視の弊害だ。時間がかかるのは、言うまでもないが、さまざまな部署・役職のチェックや承認が必要だからだ。承認の根拠となる煩雑な資料も求められる。こうした手続きは、責任を分散する「調整」の一種である。平時にはそのやり方の弊害はそれほどはあらわれないが、スピードが求められる非常時には困ったことになる。たくさんのハンコを要するシステムは、申請が殺到したら対応しきれなくなってしまう。

そして、「調整」にエネルギーをとられていると、本来なすべきことを見失ったり、十分に取り組めなくなるだろう。今、日本の政治・行政は「調整」という、いつものやり方から離れられず、「科学的な対処」を迅速に行うことができないでいるのではないか。

権力や責任のある人たちが「調整」を重視するのはなぜだろうか? たぶんそれは「保身」「責任回避」ということに関わっている。「調整」というのは、「これは関係者が話し合って決めたことなので、その責任を特定の誰かが負うことはない」と確認する手続きでもある。

今回の件に関しては「できるだけ責任は負いたくない、とても負えない」という姿勢が、日本社会のさまざまな場所でみられる。外出や営業の制限が当局による「自粛のお願い」というかたちをとっているのは、象徴的だ。「強制」ではなく「お願い」であれば当局の責任は軽減される。これは法律がそうなっているからだが、その法律のあり方はまさに日本的である。

また、首相や大臣が重要な決定について述べるとき、いつも「専門家の意見に基づいて」と強調しているのも気になる。

これは、必ずしも「専門家を重視する」ということではないのだろう。本当に重視するなら、総理は緊急事態宣言のときに「人の接触を7割~8割削減」とは言わなかったはずだ。「8割おじさん」の西浦教授は「私は7割なんて言っていない、あくまで8割削減だ」と述べているという。

「7~8割」という言い方の背後には「8割だと経済にダメージが大きすぎる、もう少し幅を持たせたほうがいい」という、「経済重視」の思惑や配慮があるのだろう。そういう政治の立場を入れながらも、「これは専門家の意見」ということをくりかえすのである。

「専門家の見解は政治にとって免罪符であり、都合のいい部分はつまみ食い的に利用する」といった考えが、責任ある人たちの本音ではないか? それはいつものやり方だ。だとしたら、「科学的に問題に対処する」ことに背を向けているのである。もちろん、そればかりではないと信じたい……

このブログでは、これまで政治批判はそれほどは書いてこなかった。しかし今の状況では「政府のトップは、この問題に危機感を持って真剣に取り組む気があるのだろうか、大丈夫なのだろうか」と心配になる。

たとえば、PCR検査の拡充がなかなか進まないことや、医療現場でマスクをはじめとする物資の不足が続いていることなどを報道でみていると、そう感じてしまう。批判も多かったアベノマスクで多くの不良品が出ているというのも、「政府は大丈夫か」と不安にさせる話だ。個々の現場では目の前のことに懸命に取り組んでいるようだ。ならば、司令部はどうなっているんだろう?

そして、リーダーたちについて「問題に対処する身振りや発言はしているけど、じつは一番の関心は〈この事態のなかで自分はどうふるまえば損をしないか、非難されないか〉ということなのでは」と疑ってしまうのである。不眠不休で公務にあたっていたとしても、「問題の解決」そのもの以外の何かに多くのエネルギーを費やしてはいないか。もしもこの疑いがあたっているなら、「今は非常時だから、いつものやり方は通用しない、相手はウイルスだ」と強く言いたい。

さらに、政府の危機感が薄いのだとしたら、その背景には総理や高官が、じつは社会の現場の状況についてよくわかっていないということがあるのかもしれない。

総理に情報を伝えるうえで中心にいる高級官僚の人たちは、たしかに秀才にちがいない。しかし、企業活動や行政、医療の現場の具体的なところに通じているわけではないだろう。たとえば助成金の申請窓口の仕事など、経験していないのだ。そのほか、企業の人たちと腹を割って話をする機会も、じつはほとんどないはずだ(ここは私の会社員時代の知見からも想像がつく)。また、若い頃から仕事漬けで、ふつうの人たちの生活や感覚にも疎いところがあるかもしれない。しかし、自分たちとしては「何でもわかっている」つもりなのだ。

乱暴な言い方をすれば、世間に疎いエリートが、もっと世間に疎い世襲の政治家(安倍さんはまさにそう)にアドバイスして大事なことを決めているのである。政治記者や評論家たちによれば、今の首相はとくに官邸付きの官僚たちを重用しているという。

以上は素人の推測だ。しかし、その推測が正しいとしたら、「アベノマスク」や「自宅でくつろぐ動画配信」みたいな、かなりの人にとっておおいに「ズレ」を感じることが、なぜ行われたのかについてひとつの説明にはなる。

つまり総理には、世の中の情報が上がってきていないのだ。もっと言ってしまうと、熱心にテレビのニュースやワイドショーをみたり、新聞を丁寧に読んでいる一般国民よりも、今起こっていることについて知らないのかもしれない。そうではないことを願っているが、やはり心配だ。現状が把握できなければ、「科学的な対処」も何もない。

ずいぶん長々と書いてしまいました。私ごときが書いてどうなるわけでもないけど、限られた人数であっても、とにかく読んでくださる方がいるのだから、いいのです。

(以上)

*別ブログ「そういち総研」で新しい記事をアップしました。感染症の歴史に関する記事です。多くの人が知っておいてよい、世界史上のいくつかの感染症の事例についてまとめています。

知っておくべき、大きな被害をもたらした感染症の歴史←クリック

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2020年04月19日 (日) | Edit |
昨日、ある雑誌の編集者とライターの方々とお会いして、世界史における感染症について話をしました。特集記事の取材ということです。人類にとって感染症とは何か、世界史上の知っておくべき感染症の事例、新型コロナの問題から何がみえるか……そんなことについて1時間余りお話をしました。

場所は、我が家の近所のビルの一室を借りて。新型コロナのせいで最近は使っていない部屋です。いらしたお2人とは互いにマスクをして3~4m離れて、ということにしました。

昨日の東京地方は、取材の時刻には強い雨風のひどい天気。換気のため窓を大きく開けていたので、雨風が部屋にかなり吹き込んでくる。それでもどうにか集中してお話ができました。今日はいい天気だったので、昨日の取材も今日みたいな天気だったらよかったのに、と思いました。

「人類にとって感染症とは」ということですが、私は「感染症とは文明に必然的に伴う副作用のひとつ」だと思っています。そのことを、今回の新型コロナで再認識したといってもいいです。

この数十年ほど、「文明の発達によって感染症は撲滅できる」という楽観的な見方は有力でした。しかし、新型コロナの問題は、その見方に対して根本から修正を迫るものです。

このあたりのことを3000文字余りでまとめた記事を、別ブログ「そういち総研」にアップしましたので、ご一読いただければ幸いです。

感染症は文明の副作用←こちらをクリック

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この土日の外出は、昨日の取材のほかには、今日30分ほど近所の公園で散歩して、20分ほどスーパーで食料品を買ったというもの。これで数日はスーパーには行かない予定。あとは家にひきこもって、本を読んだり、ブログの記事を書いたり、夫婦でご飯を作って食べたり。今夜は生姜焼き定食。

テレビは報道系のものを多少みて、あとは映画の放送をちらちら観ていました。土曜日は「時をかける少女」、日曜は「ねらわれた学園」。どちらも最近亡くなった大林宣彦監督の作品ですね。高校時代にリアルタイムで観た、なつかしい映画。

土日の最後に、この記事を書いています。今日も我が家としては無事に過ごせたことに感謝。毎日毎日が大事だなあと実感しています。

なおもちろんですが、感染症が文明に必然的に伴うものだからといって、対処する術がないなどというのではありません。文明の副作用をなくすことはできなくても、文明のさまざまな道具や手段をつかって、その副作用を緩和することはできるはずです。

そこで大事なのは、「科学的に、なすべきことをきちんと行うこと」です。しかし、各国のリーダーのあいだには、ときに「科学的に問題に対処する」こと以外の何かを大事にする様子がみられないでしょうか?

中国では、感染拡大の初期に、当局による情報の隠蔽らしきことがありました。アメリカでは選挙を強く意識した大統領が、コロナウイルスの脅威について、自分の経済政策の成果に暗雲をなげかけるものとして当初は過小評価する言動をしました。そういうのをみていると「大丈夫か?」と思わざるを得ません。

そして日本では、さまざまな利害関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、あるいはリーダー自身の保身を気にしすぎて迷ってしまうのか、意思決定のペースが遅い傾向がみられます。きわめて日本的なかたちで「科学的に問題に対処する」こと以外の何かが幅を効かせているようです。非常に苛立ちを感じます。

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2020年04月10日 (金) | Edit |
7日に出た政府の緊急事態宣言は「大きな津波が迫ってきた、逃げろ、命を守る行動を!」という強い警報のはずだ。にもかかわらず、「どこへどう避難するのか」について、社会のさまざまなレベルで多くのことに縛られてきちんと動けていない。

たとえば9日までの時点で「どんな事業にどんなかたちで休業を要請するか」について、政府と東京都が「調整中」だったりする。「理髪店は要請の対象とすべきか」みたいな議論である。また、そもそも政府は「要請はとりあえず2週間様子をみてから」などという方針だ。

これは巨大な津波が迫っているのに「避難についてはもろもろの調整をしたうえで…」「まずはほどほどの高台に逃げて、様子をみて必要ならもっと高いところに避難を」みたいな話をしているようなものだ。

「“避難”によって何か不都合があった場合の責任はどうなる、誰が責任をとるのか」ということも、社会の各レベルで決定権を持つ人たちはおおいに気にしている様子である。自分自身が「避難」の号令を出すのは避けたい。別の誰かが号令を出してくれるのを待とう。誰かが出した避難指示に従うなら、責任を負わないで済む……

東京のオフィス街は、緊急事態宣言後も相変わらず大勢が出ている。しかし、出勤している人たちの多くは、本音では会社に対しテレワーク・自宅待機などの「避難」の号令を出してくれ、と思っているだろう。そして、会社で決定権を持つ人たちでさえ、「誰か」の号令を待っているのかもしれない。

「もろもろの調整」「何かあったときの責任は…」というのは、いつも日本の社会を縛っている事柄だ。日本は「もろもろの調整」の国なのだ。

コロナ関連のニュースをみていても、「調整」という言葉があふれている。「調整」のおもな目的のひとつは、当事者の責任回避ということだ。関係者どうしで調整して決めたことだから、これは特定の誰かの責任ではない、というわけである。

また、これと関わる日本社会の傾向として、上位の権力が明確で系統だった方針を示さず、「あとは現場でよろしく」ということもある。「あくまで自粛(あるいは要請)です、各自の判断でお願いします」というのはまさにそうだ。これも責任回避である。そして権力を背景に「調整」をしているのだともいえる。今回は「補償などによる財政支出の責任」をどう逃れるか、ということが政府や自治体のおもな関心事だ。

今回のような事態でさえ、こうしたおなじみの日本的な思考・行動のパータンはものすごく強力に作用している。政府の最高レベルから、会社組織のような世間の末端までそうなのだ。恐ろしくなる。

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2020年04月05日 (日) | Edit |
*4月6日8時追記を文末に加えました。

私はこの土日は仕事は休みで、歩いて10分くらいの圏内からは出ず、ほぼ家にいた。

妻はパート社員だが、このような事態でも動いているインフラ系の仕事なので、土曜日は出勤した。日曜日は、妻はいつもはダブルワークで書道教師をしているが、講師をつとめるカルチャーセンターが休講となった。このほか、雑居ビルの一室を借りて自分の教室も運営しているので、今後それをどうしていくかという問題も抱えている。

カルチャーセンターの休講で、今日は夫婦2人で休日を過ごした。朝6時半に起きて、朝ごはんを食べて、テレビの報道番組をみる。NHKの『日曜討論』では、都知事が特措法の担当大臣に(一応おだやかな口調だが)かみついていた。担当大臣は「しかるべきときが来たら、緊急事態宣言を出す」と言っていたが、都知事は「もうそのときでしょう」と。

安倍総理の緊急事態宣言についての決断をここまで引っ張らせているものは、何なのだろう。

経済を重視する側近たち、あるいは財務省の影響が強い、アベノミクスの「成果」を決定的に壊す恐れのある決断を躊躇している、といったことは考えられる。

また、緊急事態宣言は、総理にとっては一種の「敗北」なのかもしれない。これまでの対応が行き詰まったことを認めるという意味での「敗北」だ。

ただ、このような総理・官邸の考えについて、政治・経済のジャーナリストはあまり踏み込んで教えてはくれないように思う。テレビをみているかぎり、そう思う。

「なぜ総理は緊急事態宣言をためらっているのか」という質問を、キャスターがゲストの識者に投げかけても、今ここで述べたような「推測」が返ってくるだけ。それはそうだ。「識者」は取材をしていないのだから、わかるはずもない。ここは政治記者のような、現場で取材をするジャーナリストの出番なのだ。

しかし、そのジャーナリストたちも十分には踏み込めていないようだ。あるいは、大事なことを人びとに伝えようとする熱意がどうも弱いように感じる。

最近のコロナ関係の報道で不満なのは、政治・経済関係のジャーナリストの突っ込みの浅さである。当局の方針をかみくだいて伝えるだけが仕事ではないだろう、と思うことがあるのだ。権力者の密室での判断がとくに重要な今回のような事態だと、ジャーナリストがリアルタイムでできることには限界があるのかもしれない。でも、今こそ「現場で取材をする、本来の意味でのジャーナリスト」が本領を発揮するときだと思う。この人たちはコメンテーターや評論家にはできないことができる。どうか頑張ってほしい。

『日曜討論』が終わったあと、少しのあいだ机に向かって世界史関係の読み書きをした。それから、昼前には歩いて10分ほどのところに住んでいる80歳の母に夫婦で会いに行った。ただし、母の家には行かず、家のすぐ前の公園でちょっと会って話しをしただけ。互いにマスクをしたまま1メートルは距離を置いて。

母と別れたあとは、その足で近所のショッピングセンターに向かう。今日明日の食べ物をス―パーで買う。ほしい食品は普通に買えた。マスクや消毒液のたぐいは、一応売り場を覗くが、もちろんない。

買い物が済んだら、ショッピングセンター内のイタリア料理店に寄って、行きがけに注文したテイクアウトのピザを受け取って持ち帰った。この店は小さな個人店だが、安くておいしいので、夫婦でときどき行っている。でも、しばらくはテイクアウトで利用しようと思っている。買い物は15分くらいで切り上げた。何度かスーパー店内のアルコールで手を消毒した。

午後はずっと家にいた。2人でピザを食べながら、インターネットテレビを視る。月1で放映される元スマップの3人によるバラエティ番組。妻は(つられて私も)長年のスマップファン。この番組は、普段はいろんなゲストを呼んでにぎやかにやっているのだが、今回は急きょゲストの出演なしで、現在の情勢を意識した内容となった。いつもは7時間余りを生放送でやるのだが、今日は生放送は2時間で終わり、3人は家に帰るそうだ。あとは番組の過去の映像を流していた。

元スマップ3人の生放送が終わったところで、私はまた机に向かって世界史の読み書き。それにちょっと疲れて、ネットで今日の感染者数を調べる。東京はまた100人超えでこれまでで最悪の数字だ。そのあと、この記事を書き始めた。妻は田舎の義母に電話して、様子を聞いている。マスクをほとんど持っていないようなので、何枚か送ることにした。

今18時半。不安がありながらも、私たち夫婦には静かな休まる1日。窓から夕暮れの景色がみえる。

こんなふうに過ごせるのは、社会に守られているからだ。より具体的にいえば、生活に必要なさまざまな物資を生産して運んで、販売などで届けてくれる人たち、電気・ガス・水道、運輸、通信、放送関係などの、生活のインフラを維持してくれる人たち、そして医療関係者や対策にあたる行政の方たちなど、多くの人たちの働きに、私たちは守られている。ありがとうございます。

(以上)

*4月6日8時追記:今朝のテレビのワイドショーで、つぎのような見解を述べる政治記者もいた。「緊急事態宣言について、政府内では経済対策の提示とセットで行うべきという考えが強く、明日その対策が発表される予定なので、それ以降でないと宣言はないのでは」―-これも現状の分析として、あり得ることだとは思う。しかし、欧米諸国よりもかなり遅いタイミングで出てくる経済対策は、おそらく多くの人たちが期待するものとは隔たりがあるだろう。そのような「不満足な経済対策」と「多数派の感覚よりも遅い緊急事態宣言」のセットというのは、どうなのだろう?多くの失望を生むことになるのではないか。
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2020年03月17日 (火) | Edit |
*3月31日現在の状況をふまえた「追記」を文末に加えました

昨日(3月16日)、NHKの新型コロナ関係の特集番組に、政府専門家会議の尾身副座長(おなじみの眼鏡のドクター)が映像で出演していた。そのなかで「なぜもっとPCR検査をしないのか」という主旨の視聴者からの質問を、アナウンサーが尾身氏に投げかけていた。

しかし、その答えはこれまで繰り返されてきたとおり。「PCR検査は、重症化が疑われる人のための検査ということです」の一点張り。あるいは、のらりくらりとはぐらかす。

番組をみていて、どうしてこんなに頑ななんだろうと気になってきた。これはやはり背景に何かがあるのでは?「何か」というのは「権力者の指図」ということではなく、専門家としてのそれなりの考え方があってのことだろうと、最近は思える。

その考え方とは、(私が推測するところでは)要するにこういうことだろう。

「積極的なPCR検査はしません。それを行うと多くの感染者が発見され、その人たちを隔離入院させれば、医療崩壊が起こる危険性があります。医療崩壊が起これば、本当に医療が必要な、重篤な新型コロナの患者さんや、その他の深刻な病気の人を助けることができなくなる。それだけは絶対に避けるべきです」

「PCR検査を限定することで、多くの感染者を発見できずに、その人たちが感染を広げてしまう恐れはあります。しかし、このウイルスの感染力や毒性には一定の限界があります。感染者の大多数は、他人に感染させることはありません。もし感染しても、重症化する可能性は低いです。それは、これまでのデータで確認されています」

「そこで、町のドクターなどの医療現場で、これは検査したほうがいいという人を見極めてもらい、その人だけを検査して、もしも陽性なら隔離入院させる」

「そのようにすれば、新型コロナによる入院は限られるので、医療現場でも十分な治療をすることができ、重篤になってもおそらくは命を救えます。日本では、諸外国とちがって、多くの人が町のドクターに気軽にアクセスできます。これは健康保険をはじめとするさまざまな制度や慣習でそうなっているのです。だから、身近な医療現場による、検査すべきかどうかの“選別”は有効に機能するはずです」

尾身副座長は「日本の医療には底力がある」とも述べていた。それは「町のドクターによる患者(感染が疑われる人)の選別」と「設備の整った病院での、重篤な患者に対する手厚い治療」の両者がしっかりと機能するのが日本の強みだ、という考えを抽象的に表現したものなのではないか。

政府の専門家が以上の方針だとして、そこに一定の合理性はあると思う。またその方針は、今のところはまずまずの結果をもたらしているのだろう。イタリアなどと比較するとそう思える。もちろん今後の展開はわからない。政府の専門家が、この病気の感染力や毒性などの性質を、大事なところで読み違えている可能性もあるかもしれない。

いずれにせよ、政府による上記のような明確な説明は、なされていないようだ。少なくともテレビのような目立つ場所では、行われていない。

それはそうだろうと思う。そんな説明をしたら、感染を不安に感じている多くの人が怒りだす。「このまま放っておけというのか!」と。

あるいは別の考えの専門家からみれば、突っ込みどころ満載である。感染力や毒性に限界があるとして、それは具体的にどの程度なのか?そのことについてのエビデンスはあるのか等々……

そして、データや証拠は十分ではないはずだ。少なくとも批判的な専門家を納得させるだけの厳密なものはない。ただし、「おそらくは」というレベルの一定の証拠ならある、といったところなのだろう。

町のドクターの立場では、「検査すべきかどうか、適宜判断して」というなら、もっと判断基準を明確にしてほしいということがあるだろう。でもこの病気はまだわからないことが多いので、それは難しい。だから「現場でうまくやってください」としか言えない。

うーん、だとしたら、いかにも日本的な問題への対処方法だと思う。明確で系統だった方針をリーダーが示すことなく、あいまいなまま。あとは現場や関係者が察して上手くやってくださいというわけだ。

また、「厳密で突っ込みどころのない材料がそろわないと、きちんと説明できない」という前提でものごとが動いているのだとしたら、それもいかにも日本的だ。

緊迫した現場では、「一定の蓋然性(確からしさ)」で意思決定していくことは、当然あっていいはずだ。しかし、日本では「お上はとにかくまちがいがあってはならない、絶対に確かなことでなければ言うべきでない」という雰囲気がある。これは、政府内だけでなく、国民のあいだにもある。

今回の新型コロナの件は、その日本的な手法によって、結果的にまずまずのところに落ち着くのかもしれない。もちろん油断はできないが。

しかしいずれにせよ、このままでは自覚的な行動に基づく「経験」というものが社会的に蓄積されない。経験というのは、「自分(たち)が何のために何をしているのか」を明確に意識して行動し、その結果を検証・反省してこそ得られる。今回の「政府の方針」のように、明確で系統だった説明が不十分なままでの取り組みでは、それは望めないだろう。

また、指導的な人たちが国民を信頼していない感じも、伝わってくる。「どうせ下々には説明してもわからないだろう」ということだ。

以上は、限られた・ありふれた情報から、私なりに推測を重ねた素人談義ですが、どうでしょうか?多くの人がある程度は感じていることをまとめたに過ぎないのかもしれません。とにかく、この「推測」が当たっているかどうかは、これからだんだんはっきりするでしょう。

(以上)

*3月31日追記 その後の報道で専門家の発言をみていると、この記事で述べた「政府筋の専門家の方針」についての理解は、ズレていなかったと感じます。

たとえば、先週時点で押谷仁教授(厚労省クラスタ―対策班の中心の1人)は、NHKのニュース番組のインタビューで「PCR検査をおさえているからこそ、医療崩壊に至っていない」という主旨(正確な再現ではないが、ほぼこれに近い踏み込んだ言い方)のことを述べていました。

また、この記事では述べていないことですが、「クラスターを個別につぶしていく」(まとまった感染があった場合、そこに接点のあった人たちをフォローして隔離や行動の規制をする)という地道で大変な作業に、当局の専門家が尽力したことも、効果があったようです。

ただし、現時点では局面は明らかに変わってきたと思えます。つまり、今までのやり方はもう限界なのではないか。今の段階では「症状の程度に合わせて患者を振り分ける」ことを徹底するという前提で「積極的な検査の実施(現状把握)」ということが求められるのではないか。

これまでのように、あいまいさを含んだ「最前線の現場に任せる」やり方ばかりではなく、上部からの明確で系統だった方針・基準に基づいた運営を確立していくということです。しかし、そのための体制や枠組みづくりは、どうなっているのだろう?

また「振り分け」をした患者を収容する病床の確保、専門の医療施設の整備(臨時の建設も含む)、その他医療関係の物資・機器の調達は必須なはずですが、当局の対応のテンポには不安を感じざるを得ません。

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2020年02月28日 (金) | Edit |
昨日、マンガ雑誌『モーニング』に掲載された「手塚治虫AI」を用いて制作されたという短編マンガ「ぱいどん」(前編)を読んだ。試みとしては、なかなかの出来栄えだった。

たしかに「今の時代に手塚治虫が生きていて、マンガを描いたらこんな感じかも」と思えるような。ただわずかに手触りや雰囲気はちがうとは思うが、それでも相当近いものになっているかと。

なお、私は少年時代は手塚マンガが好きで、かなり読んだ。「手塚治虫全集」全300巻プラスアルファにある作品の、半分くらいは読んでいると思う(つまり、手塚治虫についてはそれなりには知っているつもりだと言いたい)。

ただし、今回AIが担当したのは、マンガ制作のほんの一部だ。「プロット(物語のネタ・構成要素)のキーワード生成」と「キャラクターデザインの原案の生成」に限られている。その制作過程は、マンガ本編に付属する記事でくわしく紹介されていた。

つまり、つぎのような過程である。

まず、手塚作品(おもに1970年代のもの、「ブラック・ジャック」などが描かれた頃)のストーリーやキャラクターの顔を選択・整理してデータ入力する。つぎに、それをもとにAIが「物語を構成するキーワード」や「キャラの顔のデザイン画像」をアウトプットする。AIが動くためのデータの作成には、技術者のほかに手塚治虫の子息で映画監督の手塚真さんや、手塚プロダクションの人びとがたずさわった。

そして、AIが出力したものをクリエイターたちが取捨選択して描き直したり、物語として構成していったりする。ここでも手塚真さんが重要な役割を果たしたようだ。

さらにそうやってつくった設定や物語をもとに、脚本家がシナリオを書き、マンガ家がそのシナリオに基づく「ネーム」というマンガのコマ割や構図などの素案(絵コンテみたいなもの)をつくり、その「ネーム」に沿って、手塚プロダクション関係のマンガ家などからなる作画チームが絵を描いて…という流れだ。

要するに、ほとんど人間がつくっているのである。エンジニアのほか、手塚作品をよく理解するクリエイターたち大勢によってつくりあげた作品ということだ(このマンガの作者名は、「TEZUKA2020プロジェクト」となっている。手塚治虫AIではない)。雑誌側も「まだまだ『AIが描いた漫画』と呼べるものではありません」と断っている。

結局このマンガ制作でAIが行ったのは、「クリエイターの発想やイメージのきっかけとなる素材のアウトプット」ということだ。それに限定される。

しかし、「人間が考えるための素材やきっかけの提供」というのは、AIの典型的な使い方ではないだろうか。少なくとも当面可能なAIとはそういうものではないか。

でも、そんなふうに「何かを生み出すためのネタ出し」的なことを、ある程度コンピュータが担えるなんて、たいした技術の進歩だと思う。人間の能力を拡張・強化する「道具」としてのコンピュータが、さらに進化しているということだ。

そして、人間がコンピュータと一緒に働きはじめて何十年か経つけど、「コンピュータと働くこと」がさらに進化しつつあるということなのだろう。「アイデアの素材をコンピュータに訊く」ということ、つまり「コンピュータとネタを考える」ことが、これから一般的になるかもしれない。

その先駆は、おそらくコンピュータを使ったチェス競技だ。チェスのAIとチェス棋士がチームを組むと(正確にはチェス棋士がAIの支援を受けてチェスを指すと)、まさに「最強」になるのだそうだ。その場合、AIが提示する手を参考に人間がチェスを指していくのである(経済学者タイラー・コーエンの本で知った)。

つまり、AIという進化したコンピュータとうまく仕事ができれば、人間の能力や可能性はさらに大きなものになる。

そんなことを、今回の「手塚治虫AI」を使ったマンガであらためて感じました。

それにしても、最近は「AI美空ひばり」と称するCG画像と合成の歌声(やや気味が悪かった)もあったし、「AI○○」というのはいろいろつくられて一般化していくのだろうなあ。「AIビートルズ」「AIプレスリー」「AIピカソ」みたいなのが、本家の公認・非公認問わずたくさん出てくるのだろう。

それらにはかなり良いのものもあるだろうが、大部分はつまらないものになるはずだ。玉石混交の、過去の巨匠の幽霊みたいなコンテンツが世の中にあふれるということ。それはなんだか気持ち悪い。

(以上)
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