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2020年04月05日 (日) | Edit |
*4月6日8時追記を文末に加えました。

私はこの土日は仕事は休みで、歩いて10分くらいの圏内からは出ず、ほぼ家にいた。

妻はパート社員だが、このような事態でも動いているインフラ系の仕事なので、土曜日は出勤した。日曜日は、妻はいつもはダブルワークで書道教師をしているが、講師をつとめるカルチャーセンターが休講となった。このほか、雑居ビルの一室を借りて自分の教室も運営しているので、今後それをどうしていくかという問題も抱えている。

カルチャーセンターの休講で、今日は夫婦2人で休日を過ごした。朝6時半に起きて、朝ごはんを食べて、テレビの報道番組をみる。NHKの『日曜討論』では、都知事が特措法の担当大臣に(一応おだやかな口調だが)かみついていた。担当大臣は「しかるべきときが来たら、緊急事態宣言を出す」と言っていたが、都知事は「もうそのときでしょう」と。

安倍総理の緊急事態宣言についての決断をここまで引っ張らせているものは、何なのだろう。

経済を重視する側近たち、あるいは財務省の影響が強い、アベノミクスの「成果」を決定的に壊す恐れのある決断を躊躇している、といったことは考えられる。

また、緊急事態宣言は、総理にとっては一種の「敗北」なのかもしれない。これまでの対応が行き詰まったことを認めるという意味での「敗北」だ。

ただ、このような総理・官邸の考えについて、政治・経済のジャーナリストはあまり踏み込んで教えてはくれないように思う。テレビをみているかぎり、そう思う。

「なぜ総理は緊急事態宣言をためらっているのか」という質問を、キャスターがゲストの識者に投げかけても、今ここで述べたような「推測」が返ってくるだけ。それはそうだ。「識者」は取材をしていないのだから、わかるはずもない。ここは政治記者のような、現場で取材をするジャーナリストの出番なのだ。

しかし、そのジャーナリストたちも十分には踏み込めていないようだ。あるいは、大事なことを人びとに伝えようとする熱意がどうも弱いように感じる。

最近のコロナ関係の報道で不満なのは、政治・経済関係のジャーナリストの突っ込みの浅さである。当局の方針をかみくだいて伝えるだけが仕事ではないだろう、と思うことがあるのだ。権力者の密室での判断がとくに重要な今回のような事態だと、ジャーナリストがリアルタイムでできることには限界があるのかもしれない。でも、今こそ「現場で取材をする、本来の意味でのジャーナリスト」が本領を発揮するときだと思う。この人たちはコメンテーターや評論家にはできないことができる。どうか頑張ってほしい。

『日曜討論』が終わったあと、少しのあいだ机に向かって世界史関係の読み書きをした。それから、昼前には歩いて10分ほどのところに住んでいる80歳の母に夫婦で会いに行った。ただし、母の家には行かず、家のすぐ前の公園でちょっと会って話しをしただけ。互いにマスクをしたまま1メートルは距離を置いて。

母と別れたあとは、その足で近所のショッピングセンターに向かう。今日明日の食べ物をス―パーで買う。ほしい食品は普通に買えた。マスクや消毒液のたぐいは、一応売り場を覗くが、もちろんない。

買い物が済んだら、ショッピングセンター内のイタリア料理店に寄って、行きがけに注文したテイクアウトのピザを受け取って持ち帰った。この店は小さな個人店だが、安くておいしいので、夫婦でときどき行っている。でも、しばらくはテイクアウトで利用しようと思っている。買い物は15分くらいで切り上げた。何度かスーパー店内のアルコールで手を消毒した。

午後はずっと家にいた。2人でピザを食べながら、インターネットテレビを視る。月1で放映される元スマップの3人によるバラエティ番組。妻は(つられて私も)長年のスマップファン。この番組は、普段はいろんなゲストを呼んでにぎやかにやっているのだが、今回は急きょゲストの出演なしで、現在の情勢を意識した内容となった。いつもは7時間余りを生放送でやるのだが、今日は生放送は2時間で終わり、3人は家に帰るそうだ。あとは番組の過去の映像を流していた。

元スマップ3人の生放送が終わったところで、私はまた机に向かって世界史の読み書き。それにちょっと疲れて、ネットで今日の感染者数を調べる。東京はまた100人超えでこれまでで最悪の数字だ。そのあと、この記事を書き始めた。妻は田舎の義母に電話して、様子を聞いている。マスクをほとんど持っていないようなので、何枚か送ることにした。

今18時半。不安がありながらも、私たち夫婦には静かな休まる1日。窓から夕暮れの景色がみえる。

こんなふうに過ごせるのは、社会に守られているからだ。より具体的にいえば、生活に必要なさまざまな物資を生産して運んで、販売などで届けてくれる人たち、電気・ガス・水道、運輸、通信、放送関係などの、生活のインフラを維持してくれる人たち、そして医療関係者や対策にあたる行政の方たちなど、多くの人たちの働きに、私たちは守られている。ありがとうございます。

(以上)

*4月6日8時追記:今朝のテレビのワイドショーで、つぎのような見解を述べる政治記者もいた。「緊急事態宣言について、政府内では経済対策の提示とセットで行うべきという考えが強く、明日その対策が発表される予定なので、それ以降でないと宣言はないのでは」―-これも現状の分析として、あり得ることだとは思う。しかし、欧米諸国よりもかなり遅いタイミングで出てくる経済対策は、おそらく多くの人たちが期待するものとは隔たりがあるだろう。そのような「不満足な経済対策」と「多数派の感覚よりも遅い緊急事態宣言」のセットというのは、どうなのだろう?多くの失望を生むことになるのではないか。
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2020年03月17日 (火) | Edit |
*3月31日現在の状況をふまえた「追記」を文末に加えました

昨日(3月16日)、NHKの新型コロナ関係の特集番組に、政府専門家会議の尾身副座長(おなじみの眼鏡のドクター)が映像で出演していた。そのなかで「なぜもっとPCR検査をしないのか」という主旨の視聴者からの質問を、アナウンサーが尾身氏に投げかけていた。

しかし、その答えはこれまで繰り返されてきたとおり。「PCR検査は、重症化が疑われる人のための検査ということです」の一点張り。あるいは、のらりくらりとはぐらかす。

番組をみていて、どうしてこんなに頑ななんだろうと気になってきた。これはやはり背景に何かがあるのでは?「何か」というのは「権力者の指図」ということではなく、専門家としてのそれなりの考え方があってのことだろうと、最近は思える。

その考え方とは、(私が推測するところでは)要するにこういうことだろう。

「積極的なPCR検査はしません。それを行うと多くの感染者が発見され、その人たちを隔離入院させれば、医療崩壊が起こる危険性があります。医療崩壊が起これば、本当に医療が必要な、重篤な新型コロナの患者さんや、その他の深刻な病気の人を助けることができなくなる。それだけは絶対に避けるべきです」

「PCR検査を限定することで、多くの感染者を発見できずに、その人たちが感染を広げてしまう恐れはあります。しかし、このウイルスの感染力や毒性には一定の限界があります。感染者の大多数は、他人に感染させることはありません。もし感染しても、重症化する可能性は低いです。それは、これまでのデータで確認されています」

「そこで、町のドクターなどの医療現場で、これは検査したほうがいいという人を見極めてもらい、その人だけを検査して、もしも陽性なら隔離入院させる」

「そのようにすれば、新型コロナによる入院は限られるので、医療現場でも十分な治療をすることができ、重篤になってもおそらくは命を救えます。日本では、諸外国とちがって、多くの人が町のドクターに気軽にアクセスできます。これは健康保険をはじめとするさまざまな制度や慣習でそうなっているのです。だから、身近な医療現場による、検査すべきかどうかの“選別”は有効に機能するはずです」

尾身副座長は「日本の医療には底力がある」とも述べていた。それは「町のドクターによる患者(感染が疑われる人)の選別」と「設備の整った病院での、重篤な患者に対する手厚い治療」の両者がしっかりと機能するのが日本の強みだ、という考えを抽象的に表現したものなのではないか。

政府の専門家が以上の方針だとして、そこに一定の合理性はあると思う。またその方針は、今のところはまずまずの結果をもたらしているのだろう。イタリアなどと比較するとそう思える。もちろん今後の展開はわからない。政府の専門家が、この病気の感染力や毒性などの性質を、大事なところで読み違えている可能性もあるかもしれない。

いずれにせよ、政府による上記のような明確な説明は、なされていないようだ。少なくともテレビのような目立つ場所では、行われていない。

それはそうだろうと思う。そんな説明をしたら、感染を不安に感じている多くの人が怒りだす。「このまま放っておけというのか!」と。

あるいは別の考えの専門家からみれば、突っ込みどころ満載である。感染力や毒性に限界があるとして、それは具体的にどの程度なのか?そのことについてのエビデンスはあるのか等々……

そして、データや証拠は十分ではないはずだ。少なくとも批判的な専門家を納得させるだけの厳密なものはない。ただし、「おそらくは」というレベルの一定の証拠ならある、といったところなのだろう。

町のドクターの立場では、「検査すべきかどうか、適宜判断して」というなら、もっと判断基準を明確にしてほしいということがあるだろう。でもこの病気はまだわからないことが多いので、それは難しい。だから「現場でうまくやってください」としか言えない。

うーん、だとしたら、いかにも日本的な問題への対処方法だと思う。明確で系統だった方針をリーダーが示すことなく、あいまいなまま。あとは現場や関係者が察して上手くやってくださいというわけだ。

また、「厳密で突っ込みどころのない材料がそろわないと、きちんと説明できない」という前提でものごとが動いているのだとしたら、それもいかにも日本的だ。

緊迫した現場では、「一定の蓋然性(確からしさ)」で意思決定していくことは、当然あっていいはずだ。しかし、日本では「お上はとにかくまちがいがあってはならない、絶対に確かなことでなければ言うべきでない」という雰囲気がある。これは、政府内だけでなく、国民のあいだにもある。

今回の新型コロナの件は、その日本的な手法によって、結果的にまずまずのところに落ち着くのかもしれない。もちろん油断はできないが。

しかしいずれにせよ、このままでは自覚的な行動に基づく「経験」というものが社会的に蓄積されない。経験というのは、「自分(たち)が何のために何をしているのか」を明確に意識して行動し、その結果を検証・反省してこそ得られる。今回の「政府の方針」のように、明確で系統だった説明が不十分なままでの取り組みでは、それは望めないだろう。

また、指導的な人たちが国民を信頼していない感じも、伝わってくる。「どうせ下々には説明してもわからないだろう」ということだ。

以上は、限られた・ありふれた情報から、私なりに推測を重ねた素人談義ですが、どうでしょうか?多くの人がある程度は感じていることをまとめたに過ぎないのかもしれません。とにかく、この「推測」が当たっているかどうかは、これからだんだんはっきりするでしょう。

(以上)

*3月31日追記 その後の報道で専門家の発言をみていると、この記事で述べた「政府筋の専門家の方針」についての理解は、ズレていなかったと感じます。

たとえば、先週時点で押谷仁教授(厚労省クラスタ―対策班の中心の1人)は、NHKのニュース番組のインタビューで「PCR検査をおさえているからこそ、医療崩壊に至っていない」という主旨(正確な再現ではないが、ほぼこれに近い踏み込んだ言い方)のことを述べていました。

また、この記事では述べていないことですが、「クラスターを個別につぶしていく」(まとまった感染があった場合、そこに接点のあった人たちをフォローして隔離や行動の規制をする)という地道で大変な作業に、当局の専門家が尽力したことも、効果があったようです。

ただし、現時点では局面は明らかに変わってきたと思えます。つまり、今までのやり方はもう限界なのではないか。今の段階では「症状の程度に合わせて患者を振り分ける」ことを徹底するという前提で「積極的な検査の実施(現状把握)」ということが求められるのではないか。

これまでのように、あいまいさを含んだ「最前線の現場に任せる」やり方ばかりではなく、上部からの明確で系統だった方針・基準に基づいた運営を確立していくということです。しかし、そのための体制や枠組みづくりは、どうなっているのだろう?

また「振り分け」をした患者を収容する病床の確保、専門の医療施設の整備(臨時の建設も含む)、その他医療関係の物資・機器の調達は必須なはずですが、当局の対応のテンポには不安を感じざるを得ません。

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2020年02月28日 (金) | Edit |
昨日、マンガ雑誌『モーニング』に掲載された「手塚治虫AI」を用いて制作されたという短編マンガ「ぱいどん」(前編)を読んだ。試みとしては、なかなかの出来栄えだった。

たしかに「今の時代に手塚治虫が生きていて、マンガを描いたらこんな感じかも」と思えるような。ただわずかに手触りや雰囲気はちがうとは思うが、それでも相当近いものになっているかと。

なお、私は少年時代は手塚マンガが好きで、かなり読んだ。「手塚治虫全集」全300巻プラスアルファにある作品の、半分くらいは読んでいると思う(つまり、手塚治虫についてはそれなりには知っているつもりだと言いたい)。

ただし、今回AIが担当したのは、マンガ制作のほんの一部だ。「プロット(物語のネタ・構成要素)のキーワード生成」と「キャラクターデザインの原案の生成」に限られている。その制作過程は、マンガ本編に付属する記事でくわしく紹介されていた。

つまり、つぎのような過程である。

まず、手塚作品(おもに1970年代のもの、「ブラック・ジャック」などが描かれた頃)のストーリーやキャラクターの顔を選択・整理してデータ入力する。つぎに、それをもとにAIが「物語を構成するキーワード」や「キャラの顔のデザイン画像」をアウトプットする。AIが動くためのデータの作成には、技術者のほかに手塚治虫の子息で映画監督の手塚真さんや、手塚プロダクションの人びとがたずさわった。

そして、AIが出力したものをクリエイターたちが取捨選択して描き直したり、物語として構成していったりする。ここでも手塚真さんが重要な役割を果たしたようだ。

さらにそうやってつくった設定や物語をもとに、脚本家がシナリオを書き、マンガ家がそのシナリオに基づく「ネーム」というマンガのコマ割や構図などの素案(絵コンテみたいなもの)をつくり、その「ネーム」に沿って、手塚プロダクション関係のマンガ家などからなる作画チームが絵を描いて…という流れだ。

要するに、ほとんど人間がつくっているのである。エンジニアのほか、手塚作品をよく理解するクリエイターたち大勢によってつくりあげた作品ということだ(このマンガの作者名は、「TEZUKA2020プロジェクト」となっている。手塚治虫AIではない)。雑誌側も「まだまだ『AIが描いた漫画』と呼べるものではありません」と断っている。

結局このマンガ制作でAIが行ったのは、「クリエイターの発想やイメージのきっかけとなる素材のアウトプット」ということだ。それに限定される。

しかし、「人間が考えるための素材やきっかけの提供」というのは、AIの典型的な使い方ではないだろうか。少なくとも当面可能なAIとはそういうものではないか。

でも、そんなふうに「何かを生み出すためのネタ出し」的なことを、ある程度コンピュータが担えるなんて、たいした技術の進歩だと思う。人間の能力を拡張・強化する「道具」としてのコンピュータが、さらに進化しているということだ。

そして、人間がコンピュータと一緒に働きはじめて何十年か経つけど、「コンピュータと働くこと」がさらに進化しつつあるということなのだろう。「アイデアの素材をコンピュータに訊く」ということ、つまり「コンピュータとネタを考える」ことが、これから一般的になるかもしれない。

その先駆は、おそらくコンピュータを使ったチェス競技だ。チェスのAIとチェス棋士がチームを組むと(正確にはチェス棋士がAIの支援を受けてチェスを指すと)、まさに「最強」になるのだそうだ。その場合、AIが提示する手を参考に人間がチェスを指していくのである(経済学者タイラー・コーエンの本で知った)。

つまり、AIという進化したコンピュータとうまく仕事ができれば、人間の能力や可能性はさらに大きなものになる。

そんなことを、今回の「手塚治虫AI」を使ったマンガであらためて感じました。

それにしても、最近は「AI美空ひばり」と称するCG画像と合成の歌声(やや気味が悪かった)もあったし、「AI○○」というのはいろいろつくられて一般化していくのだろうなあ。「AIビートルズ」「AIプレスリー」「AIピカソ」みたいなのが、本家の公認・非公認問わずたくさん出てくるのだろう。

それらにはかなり良いのものもあるだろうが、大部分はつまらないものになるはずだ。玉石混交の、過去の巨匠の幽霊みたいなコンテンツが世の中にあふれるということ。それはなんだか気持ち悪い。

(以上)
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2020年02月24日 (月) | Edit |
新型コロナウイルス(新型肺炎)のことが、毎日報道されています。自分の身を守るための情報を得ようとする一方で、「世界史」についての関心からも報道に注目しています。

とくに気になるのは中国のことです。今回の新型肺炎の件での中国の動きをみていると、「やはり中国は専制国家だ」ということをひしひしと感じます。「専制」というのは「独裁」とほぼ同じ意味で、中国の皇帝支配については、とくに「専制」という言葉はよく用いられます。

中国は今も昔も専制的な権力を持つ皇帝が支配する国です。今の中国の最高指導者も、王朝時代の皇帝とよく似ています。圧倒的な権力が1人の指導者に集中しているのです。そして、組織や団体への帰属意識の薄い、いわばばらばらの個人が最高権力者によって束ねられる…そんな構図になっている。

専制国家では、現場で起こっている「悪いニュース」がトップに届きにくくなります。組織のいろいろなレベルで隠ぺい体質がある。それはどんな社会にもあることですが、専制国家ではとくに顕著になります。

今回の新型肺炎ではとくに初期段階で、中国当局はさまざまな情報隠ぺいを行ったとみられます。12月末に従来とは異なる肺炎の流行に気がついて警告を発した医師が、1月には当局に処分されるということもありました(その医師はその後新型肺炎を発症し死亡)。当局は「悪いニュース」をおさえこもうとしたのです。

しかし、1月下旬には習近平主席が「情報をきちんと開示せよ」と指示を発したとたん、当局の発表する感染者数が急増したということもあった。そして、最高指導者が一種の「非常事態」を宣言したあとは、国をあげて対策に動きだした…

昨日、そのようなテーマで長文の記事を別ブログ「そういち総研」にアップしました。

専制国家・中国の社会構造と行動の特徴←クリック

中国がトップに権力が極端に集中する「専制国家」であるのに対し、日本では、権力の集中は明確ではありません。

日本では、さまざまなレベルの団体・組織が積み重なっていて、それぞれが一定の権威・権力を持っている。そして相互に協力したりけん制したりする傾向が強い。いわば「団体構造」の社会です。そのような中国や日本の社会の特徴が、最近の新型コロナウイルスへの対応には端的にあらわれている……そんなことを記事では述べています。

最近は、平日は勤めの仕事ですが、休みの日はほとんど家にひきこもって机にむかっています。新型肺炎のことが気になってというわけではなく、読むこと書くことにそれなりに集中できているという感じです。

でも私は、休みの日に近所や沿線の駅前をぶらぶらするのが好きです。本屋に入ってうろうろして何か買って、コーヒーショップで読んだり、腹が減ったらラーメンを食べたりする。そうしていると、いろいろ考えが浮かんで、いいアイデアや前向きなプランが出てきたりしたものです。

最近は集中して頑張れるのはいいのですが、「ぶらぶら」していないので、ストレスがたまってきた感があります。今日はいい天気だし、午後に少しぶらぶらしたいと思います。

(以上)
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2020年01月19日 (日) | Edit |
今年になって、別ブログの「そういち総研」で、つぎの2つの記事をアップしました。

ビザンツ帝国=東ローマ帝国とはどういう国だったか

古代・中世・近代という世界史の時代区分

「ビザンツ帝国=東ローマ帝国」というのは、世界史のなかではややマイナーなテーマです。少なくとも古代ギリシアやローマ帝国、あるいはイスラムの帝国などに比べると。

たとえば、世界史に興味がある人なら「古代ギリシアやローマ帝国の有名な人物をあげよ」といわれたら、いろんな名前が出てくるはずなんですが、ビザンツ帝国についてはなかなか出てこないのが普通です。

でも、じつはビザンツ帝国というのは、興味深いと思っています。その国家・社会のあり方が、現代世界の先進国によく似ているのです。

成熟して文化の活気は衰え、細かな応用や改良が中心。かつての民主主義の伝統は形骸化し、新たに台頭した周辺の新興国の脅威にさらされている……ビザンツで起こったことは、これからの世界でも起きるんじゃないか?もちろん、時代がちがうので同じことの繰り返しではなく、現代的に形を変えて起こるのでしょう。

「古代・中世・近代という世界史の時代区分」ですが、昔から重視してきたテーマです。じつは、私が世界史にのめり込み始めたきっかけは、20代の頃に世界史の時代区分について興味を持ったことでした。

当時、多少の本を読んでいるうちに「従来の世界史の時代区分には再検討の余地がある」と考えるようになって、その考えを補強するために色々読み始めたのです。そのときは「大きな発見」をしたような気持ちで、じつにわくわくしました。そして、20数年経った今現在も、基本的には当時のアイデアに沿って、それを充実させる方向で、世界史について考えています。

ところが最近の歴史家のあいだでは「時代区分は単なる便宜で、学問的にはあまり意味がない」などという考えが有力なのだそうです。とんでもないと思います。

時代区分というのは、膨大な歴史的知識を分類整理するための大きな枠組みを提供するものです。分類・整理を否定して、何が「学問」でしょうか。

遅くなりましたが、2020年における当ブログ最初の更新ですね。今年も世界史のことを中心に、いろいろ書いていきたいです。「書くことはたくさんある」と感じています。よろしくお願いします。

(以上)
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2019年12月15日 (日) | Edit |
「そういちカレンダー2020」発売中!

歴史や科学などに関する記事がぎっしり詰まった、雑誌感覚の「読むカレンダー」をつくって販売しています(下の画像)。トイレの壁とか、家族や仲間が立ち止まって読むようなところに貼ってください。
周りの人との共通の話題や、「話のネタ」「考えるきっかけ」を得られるはずです。


2014年版から制作していて、今回で7年目。
このカレンダーづくりは、私にとって「1年のまとめ」のような活動です。

イラストも含めた原稿作成、編集レイアウト、さらに印刷まで自分でやっています。結構エネルギーを費やしております。

こういう、時間や手間のかかる「遊び」ができるのは、いろんな環境に恵まれているからこそ。今年もこのカレンダーを制作できたことに感謝。

購入については、画像(2月のページ)の下に。

カレンダー2020見本

【このカレンダーのコンテンツ】
①四百文字の偉人伝 古今東西の偉人を400文字程度で紹介
②名言 世界の見方が広がる・深まる言葉を集めました。
③コラム 発想法・社会批評・世界史等々
④知識 統計数値・歴史の年号・基本用語などを短く紹介
⑤各月の日付の欄に偉人の誕生日

【カレンダー仕様】 B5サイズ,全14ページ
ダブルループ製本、極厚口の上質紙(アイボリー)

【価格】1冊1000円(送料込み) 
10冊以上ご注文の場合、2割引きの1冊800円

【購入方法】
下記のメールアドレスまで「①お名前②お届け先住所③カレンダー〇冊」の3点を書いたメールをお送りください。

カレンダーの発行者である「そういち」のメールアドレスです。

メール送り先:so.akitaあっとgmail.com  「あっと」は@に変換

支払は、商品到着後。
ご注文があってから数日ほどで商品を郵送にてお届けします。
商品とともに代金振り込み先(郵便振替または楽天銀行の口座)のご案内をお送りします。

(以上)
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2019年11月11日 (月) | Edit |
今から30年ほど前、私そういちが若者だった1980年代後半から1990年頃、活字文化はまだそれなりに元気だった。

当時の私(大学生から新入社員の頃)は読書好きの1人として、社会・人文系の古典を読むことに大きな意義を感じていた。神保町の古書店街にもときどき足を運んだ。給料をもらうようになって、学生時代から欲しかった岩波のヘーゲル全集やアリストテレス全集を何万円かで買ったりもした。こういう古典は、活字文化のなかで高い位置を占めていた。

1990年代前半の頃、インターネットはまだ一部の科学者やマニアのもので、家庭でのパソコンの普及も限られていた。私はワープロ専用機で書いた文章を印刷し、仲間との集まりで配ったりしていた。

1990年代の終わりに、私は初めてパソコンを買ってインターネットも始めた。パソコンやインターネットの急速な普及は1990年代半ばからだというから、その動きに対し、やや後ろのほうからついていく感じである。

そして、Eメールの機能を使ってグループをつくり交流する「メーリングリスト」の集まりに参加するようにもなった。私が参加したのは、科学教育、科学史・科学論に関心を持つ、数十人のアマチュアの集まりだった。なお、当時は今のようなSNSのプラットフォームはまだない。

会社勤めから帰ると夢中になって、メーリングリストにさまざまな書き込みをした。今書いているもののベースになるような歴史や社会に関する議論も、全国のメーリングリストの仲間と行った。これは本当に楽しかった。また、その仲間とはときどき「研究会」というかたちで、顔を合わせた。

2000年代(ゼロ年代)半ばには、ブログというものがあることを知って、自分も始めてみた。そのときのブログは数か月でやめてしまい、その数年後(2013年)に今のこのブログを始めた。メーリングリストのほうは、最初にブログを始めたあたりから私の中では停滞ぎみになり、やがてやめてしまった。2000年代後半は、SNSの時代の始まりである。

さて、今はどうか? 今どきヘーゲルみたいな古典を読むのはその方面の研究者か、そうでなくてもかなり特殊な人だけに限られるようだ。知的な素養としてそうした古典をぜひ読んでおこう、という価値観はすたれてしまった。そのような価値観は私が若い頃にもかなり下火にはなっていたが、今はもう本当に「終わった」という感じだ。

また、最近の私は古書店に行くことが減って、古本はおもにアマゾンで買っている。書いた文章を最初に発表するのは、たいていは自分のブログである。

2016年には私のブログをみた出版社の方から声がかかり、世界史に関する本を出す、などということもあった(拙著『一気にわかる世界史』日本実業出版社)。そんなかたちで本の著者になることなど、若い頃にはもちろん想像できなかった。遅ればせながら、最近になってツイッターも始めた。

知識・情報のやり取りに関する環境は、この30年で激変したのである。私が若い頃の「旧世界」はパソコンやインターネットの普及などで消滅し、新しい今の世界が出現した。

今50代半ばの私は、ちょうどその新旧2つの「世界」をある程度深く体験できた世代だと思う。それぞれの体験が中途半端かもしれないが、両方の世界を知ることができたのは良かったと思っている。

(以上)
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2019年10月29日 (火) | Edit |
妻が家の近所でビルの一室を借りて、書道教室をしている。生徒さんは大人も子どももいるが、子どもが多い。今の場所に教室を構えて4年近く経つ。

教室には「おまけ」として、おもに子供向けの本を100何十冊並べた本棚を置いて、「そういち文庫」と呼んでいる。本は自宅から持ってきたものもあるが、ほとんどはこの文庫のために買ったものだ。頂いた本はほとんどない。

こういう文庫は、よく選んだ本をそろえないといけない。「要らなくなった本」を持ち寄ったのではダメだと思う。

そういち文庫で本を読む帽子の子

子どもたちはお稽古が終わってから、気が向いたら本を棚から取り出して読む。読まない子もいるけど、かなりの子が読む。それはお母さんが迎えに来るまでの、ほんの10分の間だったりする。

この「10分」はおおいに意味がある。

ほんの短い間でも、ぐりとぐらやだるまちゃんと遊んだ気持ちになったり、宇宙の構造や世界の国旗について知ったり、犬の写真集で癒されたり、「怪談レストラン」(松谷みよ子作の人気シリーズ)にドキドキしたり、「魔女の宅急便」のキキの成長や、書道マンガ「とめはねっ!」に登場する高校生たちの青春に自分を重ねたりするのは、有意義な時間だ。10分でも子どものアタマや心に、いろいろとのこしてくれるはずだ。

子どもの10分の読書は、大人の1時間くらいに匹敵するのではないか。

子どもたちは「この本をもっと読みたい」と思えば、借りることもできる。そういち文庫は開設4年目になるが、貸出のノートは今3冊め。ノート1冊には200件の貸し出し記録がある。文庫は、すごく繁盛しているわけではないが、それなりに機能している。

最初は貸出が大事だと思っていたが、最近は教室で合間にちょっと読むというのも、すごくいいと思っている。

同じ本を何度も手にするのに、その本を借りてはいかない子もいるが、そういう「合間の読書」をたのしんでいるのだろう。

忙しかったりで疲れ気味の子は、文庫には寄りつかない。

教室にはお手玉、サイコロ、万華鏡、キャラクターの置物、変わった文具などのちょっとしたおもちゃも置いてあるので、疲れた子はそれらをいじって癒しにする(子どもたちの様子は妻からいろいろ聞いている)。たしかにある程度余裕がないと読書は楽しめないよね……

3年前にこの教室で「オープンルーム」と称し、生徒やお母さん、友人・知人に来ていただいて交流会をした。そのとき私は、そういち文庫の蔵書を紹介するプレゼンをさせてもらった。この文庫の本は子ども時代の愛読書もあるし、近年の「これは」という本もある。本について語るのは楽しかった。

参加者のひとりのブロガー仲間の方は「そういちさんにとって本は人生そのものなんですね」と言っていた。そのとおり。一昨日から読書週間だそうだが、私は1年中読書週間だ。

(以上)
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2019年10月28日 (月) | Edit |
最近、狭い家、小さな家に関する本を2冊読んだ。ひとつは高村友也『スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』(ちくま文庫)。

アメリカ発の「スモールハウス」というムーブメントがある。数坪程度の小さな小さな家を建てて暮らす。それによってローンやムダなモノに縛られず、シンプルかつ自由に生きていこうーーそんな人たちがいるのだそうだ。

アメリカ、オーストラリアの数人のスモールハウスを、著者の高村さんが取材している。高村さん自身も、雑木林の土地を買い、そこにセルフビルドの小さな小屋を建てて暮らしている(ただしその小屋と都会のアパート2か所の暮らし)。

もう1冊は、加藤郷子『あえて選んだ せまい家』(ワニブックス)。

30~50平米ほどの「せまい家」をあえて選び、リフォームやインテリアの工夫などで快適に暮らす人たちを、ライター兼編集者の著者が取材した本。たとえば30平米のワンルームに、夫婦2人で素敵に暮らしている様子が紹介されている。

この方たちはもっと広い家に住む経済力もある。しかし、都心に近い便利な場所で、小さな部屋を隅々まで整えて暮らすのが心地いいのだという。限られたスペースなので掃除も楽だ。

最近、本屋のインテリアのコーナーに行くと、「狭い家」「小さな家」をテーマにしたものが、以前より目につく。少し前に「ミニマリスト」(最小限のモノで暮らす人)という言葉が流行った。その言葉は最近は定着しているようだ。そういう「ミニマム(最小限)」への志向が高まっているということなのだろうか。

今よりも、もっと「小さな暮らし」をしたいという気持ちは、私にもある。

私は20坪、66平米ほどの昭和時代に建てられた団地をリノベして、夫婦2人で住んでいる。住み始めて10数年。たいへん気に入っていて、この家は自分にとってほんとうに大切なものだ。

しかし一方で、この家に住み始めた40歳ころとくらべて、自分が変わってきたのも感じている。たとえば「いろんなものが欲しい、揃えたい」ということが、当時よりも少なくなった。

40歳ころまでは、欲しいモノを買って家におさめていくのがうれしかった。結婚して10年ほどのあいだは、モノが年々増えていった。しかしこの10年は、家のモノが大幅に増えたということはない。たぶん我が家は、50代の夫婦2人暮らしとしてはモノは少ないほうだ。何千冊かある私の本を除いては。

それでも、買ったモノの多くを使っていない。本だって、蔵書の8~9割はこの1年手に取っていない。

40歳のころは「20坪の限られたスペース」だと思っていたけど、最近は「20坪って、私たち2人には結構な邸宅だ」と感じる。家でくつろぐとき、リビングのソファ周辺のわずかな一画で、2人で何時間もこじんまりと過ごしたりしている。

もっと少ないモノで、小さな狭い家で(20坪だって十分狭いけど、もっと)暮らしたら、たしかに気持ちいいかもしれない。使わないモノや空間を抱えているのは、大きな石を背負っているようなものだ。そんなことをときどき思います。

ただし、私がイメージする「小さな暮らし」は3坪のスモールハウスや小さなワンルームみたいな「究極」ではなく、もう少しマイルドなものだ。今より4~5割減といったところか。

それを近いうちに実行するという予定はない。でも、今回読んだ2冊にあった、極めた人たちの暮らしをみていると、「こんなミニマムな暮らしが可能なんだ」というイメージを描ける。自由になれそうな感じがしてくる。

(以上)
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2019年10月27日 (日) | Edit |
別ブログ「そういち総研」の新しい記事を、さきほどアップしました、

15分で読む世界史まとめ←クリック

世界史5000年の大きな流れを、15~20分で読める分量(6000文字ほど、原稿用紙十数枚分)で書いています。各時代の最も繁栄した「中心」といえる国・地域に焦点を合わせ、その移り変わりを追いかけるという方法によるものです。

これまで、ごく短い分量で世界史をまとめるというのは、数百文字、1000~2000文字、1~2万文字といったバージョンで書いたことがありますが、5000~6000文字というのは初めてです。正確には、10年近く前にそのくらいの長さで書いたものがありますが、それは公表せず、1~2万文字のバージョンに改定していきました。

「世界史を15分で」というのは、無謀な感じもしますが、多くの人が世界史に入門するうえでおおいに意義があると思っています。短時間で全体像をつかむことができれば、「わかりにくい」とされる世界史が、かなりとっつきやすくなるはずです。

「短い分量で世界史をまとめる」というのは、私にとって大事なテーマのひとつ。この「15分バージョン」は、今現在の自分の認識をふまえて、以前のものをベースにしながらも、新しく書き下ろした感じです。これからもバージョンアップなどを重ねていきたい。

そして、5000~6000文字の分量というのは、なかなかいいなと思います。読んでいただければ幸いです。

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